その三・当たるもこだわり、当たらぬもこだわり
後編 |
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合宿二日目午前十一時八分・遭難開始
「雪山かぁ、何すんねろなぁ……」
住之江がわくわくしながらそう漏らしていたのはちょうど合宿の始まる一週間前のことだった。
一週間前ともなると部室で顔を付き合わせる度に、話題は冬合宿のことになる。
「やっぱスキーでしょ」
「何言ってんの、今の時代はスノボだよ」
特に、吉岡と坂本はこの話題になるたびにスキー派、スノーボード派の熱論を交わしつづけている。
「何言ってるんですか。幹事はあの武松さんですよ。そんなありきたりなもので済ませるわけがないでしょう」と、冷静なコメントをしたのは、旅行用の費用を捻出しようと家計簿と格闘をしている陽太である。
その途端に坂本と吉岡が脱力したように机に突っ伏した。
「そ〜だよね〜、あの武松さんだもんね〜」
「僕たち、どうなるんだろう?」
そんな疑問に住之江が冗談めかして言った。
「雪山登山とかやらされたりするんちゃいます?」
「あはははは、と笑い飛ばせないのが怖い…」
「スキーはスキーでもゲレンデじゃなくてほんとに山を滑り降りるとかねー。ゲレンデなど人工の俗物だ、とかいって」
「「言いそ〜」」と、坂本の発言に吉岡と住之江が同意する。
「もしそうだとしたら、下手すると遭難しますね。武松さんなら太陽が地球に落ちてきても平気でしょうけど」
何とか旅行費用の捻出に目処がついたのか、陽太は家計簿を閉じて会話に参加し始めた。
「遭難かぁ、そうなったらやっぱり山岳救助犬が助けにくるのかな」
「ああ、セントバーナードで首にブランデーぶら下げてるやつね。遭難してるところにそんな犬がたずねてきてくれたらどんなに心休まるだろうね」
だが日本では山岳救助犬にセントバーナードは使っていない。
「あと、こんな風に……」と、坂本はいすを並べてそこに住之江を寝かせると、いきなりその方を揺さぶり出した。
「『住之江君、寝ちゃ駄目だ、寝たら死ぬ、起きるんだっ!』」
坂本の意図を理解したのか、それに乗って虫の息のような声を出す。
「『さ、坂本さん……あんただけでも……あんただけでも……生き延びたって下さい……そしてこの山の頂上を……』」
「『何を弱気なことをっ! 僕は意地でも君と頂上まで登るぞっ!』」
さらに吉岡がナレーターとして参加する。
「そして坂本は住之江を背負い、山の頂上を目指す……。ちなみに何故下山しないのかは聞いてはいけない。ロマンはいつも非理論的なのだから……」
吉岡のやや無責任なナレーション通りに、坂本は住之江を背負い、部屋をぐるぐると回り始めた。
姑くは無言でそうしていたが、やがて吉岡がナレーションの続きを始めた。
「しかし、山の天気は二人を歓迎する様子はない。猛る吹雪は容赦なく二人の体温を奪い、視界を塞ぐ。それはまさに冬山でもっとも恐るべきホワイトアウトだった」
坂本は部屋の中央まで歩くと、口元をにやつかせたまま寝たふりをしている住之江を背負ったまま、ガクリと膝を付いた。
「『くっ……! 山よ、何故僕達をそこまで嫌うのだ!? 僕達はただ登ろうとしているだけなのに! 登ってお前の頭を思う存分踏みにじってやりたいだけなのにぃぃぃ!』」
そこで三人は顔を見合わせて笑った。
「「「な〜んてね」」」
「しゃれになっとらぁぁぁぁんっっ!」
「住之江、静かにしろ、雪崩が起きる」
陽太は極めて冷静に住之江の絶叫をたしなめた。
しかし目隠しをして連行され、気が付けば雪山の中に放り出されていたというこの状況の中では、彼の態度は少数派だった。
吉岡は激昂し、坂本は泣きそうな表情でとぼとぼ歩いている。他の者はここにはいなかった。
彼らのポケットには武松からの手紙が入っていた。
それにはこの“遭難イベント”には「遭難班」と「救助班」の2班に分かれて行うことになっており、その振り分けは武松が独断と偏見を持って行った旨が記されていた。
また、あとでしっかりと救助するのでこの遭難というシチュエーションを楽しんでほしいとも書いてあった。
「全くふざけるなっ! あたしらにばっかりヘンなことさせて自分はいつもそれを面白がってみてるだけなんだから!」
吉岡はブツブツとそういった内容の言葉を繰り返しながら歩いている。新雪なので歩く度に足が少し沈むのだが、彼女の場合、踏み込みにかなり力が入るのでほかの三人より足跡が深い。
今彼らが向かっているのが、放り出された地点から見えた洞窟である。テントなどの装備がない今、天候が悪化したときに備えて、雨風を凌げる拠点は必要だ。
しかし、見えてはいたものの、結構距離があり、その上、雪で歩きにくいこともあってそこに到着するまで2時間を要した。
「ふう……、やっと着いた……」
「空もなんか曇ってきたし、ここから動きたくないなぁ」
その洞窟はかなり大きなもので四畳半はありそうだ。高さも、立っていても出っ張りなどに気をつけていれば頭は打たないくらいに高い。
陽太はその洞窟に入った瞬間嘆息した。
「陽太、どないしたん?」
「あれを見ろ」
陽太の指差した先を見てみると、そこにはバーナーコンロと、小さな鍋。そして、インスタントの食料が置かれていた。
「俺達は完全に武松さんに弄ばれてるぞ」
「何か腹が立つね。こっちは真剣に行動してるのにさ」
その食料に手をつけるのも完全に武松の思惑通りに動いていると思うと癪にさわったが、食欲には逆らえない。
とりあえず置いてある食料は食べることにした。食料はレトルトがほとんどでシチューやスープ、粥などもあった。湯は雪を溶かして作る。
「さて、これからどうする?」
「え? 夕方まで武松さんを待つんじゃないの?」と、吉岡の問いに坂本は意外そうな顔をして言った。
「何を間抜けなことを……、いいかいあたし達はあの武松さんにこけにされてるんだよ。このままみすみす、あの人の思惑通りにいかせてたまるもんか」
「それは俺も同感です」そう言ったのは陽太だ。「この合宿はあの部長に振り回されっぱなしだ。たまには俺達のほうであの人を振り回してやりましょう」
それを聞いた吉岡が意外そうな顔をした。
「へえ、冷静なようであんたも結構怒ってたんだ」
「怒ってるわけじゃありませんよ。ただ悔しいだけです」
「で、どうする?」
「さっきからずっと考えていたですが、この遭難は飽くまでイベント。ただのごっこです。だから武松さんも後で必ず俺達を救助できると思っている。で、武松さんを慌てさせるには…」
そこで、陽太は一度言葉を切り、スープをすすった。しかし答えが待ちきれないのか吉岡は身を乗り出して先を促す。
蚊帳の外になってしまっている坂本と住之江も陽太に注目した。
「ふんふん、それで?」
「本当に遭難すればいいんじゃないかと」
合宿二日目午後三時二十分・捜索開始
「しかしお前ってやつは相変わらずめちゃくちゃやりやがる」と、波瀬が窓から下を見下ろしながら言った。
武松、波瀬、和泉で構成される「救助班」が乗っているヘリコプターの下には黒馬岳の雪に埋もれた斜面が広がっている。
少しばかり雪が降っているが、まだヘリコプターの飛行には支障がない程度だ。
武松はひざの上に乗せたノートブックパソコンのディスプレイを険しい表情で見つめている。
「むう、つまらん。一時ごろから彼らはほとんど動いていないようだ」
「つまらないなんて言ってる場合じゃないだろうが。遭難したら安全な場所でじっと助けを待つもんだろ?」
「そうならいいが、別の心配もあがってきた」
「別の心配?」
だんだんとそれは近づいていき、比較的平らで広いところにヘリコプターは着地した。
「少し待っていてください」と、武松はヘリのパイロットにそう告げると、少し歩いたところにある洞窟に入っていく。
武松は洞窟に入ったところで、少しばかり思案顔をしていた。
「どうかしたのか?」
「さっき言った心配が当たってしまったらしい」と、波瀬の問いに武松は何かを摘み上げて渡しながら答えた。「彼らの位置を知るために発信機をつけていたのだが、バレてしまったらしい。はずしてどこかに行ってしまった」
「ということは位置がわからねェ?」
「そういうことだ。彼らの救助活動はかなり厳しくなってしまった」と、武松はあごに手をやり、思案顔をするが、波瀬はなぜか武松が喜んでいるように感じた。
(まあ、こいつの好きそーなことだしなぁ)
天候は一気に豹変した。雪がちらほらふり、風情を楽しんでいたのはつい数分前のことだ。今は痛いほど冷たい寒風と、口を開けば容赦なく飛び込んでくる雪、視界はほとんど利かず、ここがどこだかまるでわからない。
陽太たち四人は現在ロープで互いの体を繋ぎ、はぐれないようにしていることだけが唯一の救いだった。
「ねぇ陽太君、本当に大丈夫なのかい? もう帰れる保証なんてなくなっちゃったんだよ?」
聞いている方には普通の声くらいにしか聞こえないが、喋っているほうはかなり全力で叫んでいる。
「それが遭難です」
やはり冷静な返答に坂本は少し慌てた用に言い返す。
「でも死んじゃったらどうするの!?」
「そのときはそのときです。でもそうはならないですよ」と、陽太は簡潔だが全く根拠というものが見えない答えを返す。
「でもそうなったらあたしらの完全勝利だね。あの男を本当に困らせることが出来る」
吉岡の発言はかなり危ない。今回の所業には本気で腹を立てているようだ。彼を困らせるためだけに命を投げ打ってもいい気でいる。
「住之江君、君も何とか言ってやってよ」
「何とか言うも何も、俺は陽太に着いてくだけですから」
「そんなの駄目だって! いやだったらいやだって言うのが本当の友情じゃないのかい!?」
「それが嫌ちゃうんですわ。俺もあの武松さんの困ってるところもちゃんと見てみたいし」
もはや戻ることを説得するのは不可能だと悟ったのか坂本はこれ以上、言葉を重ねるのを止めてしまった。
少しして陽太が慰めるように言った。
「大丈夫ですよ、坂本さん。武松さんを完全にやり込められる気はしません。
きっとどこかで捕まってしまうでしょうから、少なくとも生き延びる確率はかなり高いと思います。
ただあの武松さんから一本取れればいい。少しでもてこずらせてやりたいんですよ」
「なんか陽太ならいい勝負できるような気がしてきたね。発信機のこともちゃんと気づいていたし」
「そうそう、陽太もあの部長に負けてへんって。ところで陽太、今どこに向かっとるつもりなん?」
「ああ、あるところに向かってるつもりだ。もし万が一そこに着くことが出来れば本当に完全勝利なんだが」
一方こちらは「救助班」。陽太に現在位置を特定するための発信機を看破されてしまったために、本当の遭難者を探す方法で操作しなくてはならない。
今、武松たち3人は黒馬岳の麓にあるヘリの発着場にいた。天候が悪化してしまったために空から探すことが出来なくなってしまったからだ。
「四人のうちの誰だか知らんが、なかなかやるな。この吹雪では足跡を辿ろうにも歩いた先から消えてしまう」
「追える追えないの話じゃねェと俺は思うがな。あの吹雪の中にいるんだぜ? そのうち凍死体で発見されるかもしれねぇだろが、あの四人」と、波瀬はテーブルに肘をついて呆れも含めた半眼で武松をにらみつけた。
「まあ、それは大変」と、言ったのは和泉である。
その声には何の緊張感も含まれていなかった。
「………」
言葉を失ってしまった波瀬に武松は不敵な笑みを浮かべてみせた。
「安心したまえ、波瀬君。一応、予備のつもりの手は打ってある。発信機よりは確実性は落ちるが、それでも通常の遭難者捜索よりはずっと楽になるはずだ」
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合宿二日目四時五十分・雪山にて鬼ごっこ
吹雪は一時的なものだったらしく、今は大分落ち着いていた。
周りの見通しもかなりよくなり、それによって陽太は自分達がちゃんと目的地に向かって歩いていることを確かめられた。しかも吹雪で死ぬことは免れたせいか、最初はしり込みしていた坂本を含め「遭難班」の士気はかなり高まっている。
「しかし吹雪が止んで問題が出てきたな」
「問題?」
吉岡が聞き返すと、陽太はこくりと頷いて、答えた。
「さっきまでは全くあっちの目を気にせずにいられましたけど、今は丸見えだ。これからは警戒しながらいかないと」と、言いながら陽太は周囲に目を配る。
「でもヘリだったら音ですぐわかるでしょ?」と、坂本が言うが、すぐにおもいなおしたように続けた。「あ、武松さんのことだからそれに気づいて地上から追ってくるか」
「坂本にしてはいい意見だね」
「ともかく周りに目をくばっとればええっちゅうことやな」
「いや、それだけじゃない。姿だけでなくてもこの降雪量じゃ足跡も残ってしまう。少し遠回りをしてでも目立たないルートを選んで通る必要がある」
程なくして陽太たちは小さな谷みたいになっているルートを発見した。ここなら水平方向から見ただけでは発見できない。
陽太は日が沈む前に夕食を済ませることを提案した。夜になってしまうと火の光で発見されてしまう可能性があるからだというのがその理由だった。
直ちにその意見は取り入れられ、洞窟に置かれていた食料で残ったものをかき集めて食事をした。
「なんかさー、あたしらって遭難者っていうよりただの逃亡者じゃない?」
スープを飲みながら吉岡が言い出した。
「言えとりますね。ほしたら武松さんらが追跡者っちゅーことですか」
そこで、全員が「ん?」と、首をかしげた。
『それは単に大掛かりな鬼ごっこなのでは?』
食事を済ませると陽太達は直ちに出発した。彼らにはテントなどの装備がないので眠ることは出来ない。となると一刻も早く目的地に着いて眠るしかないのだ。
実は彼らが向かっているのは彼らが一日目に泊まった黒馬キャンプ場だった。
彼らは「救助班」に助けられずに自力で生還する。それはおそらく武松のシナリオにはなかった展開に違いない。
その展開に持ち込むこと。それが彼らの完全勝利だった。
そんな彼らにとって夜の到来は割と歓迎できるものだった。
周りからは見つかりにくくなるし、かといって山が完全に見えなくなるわけではないので位置関係を確かめることは出来る。
足跡は残ってしまうがそれでも昼間よりはずっと見つかりにくい。
「あとどのくらいで着くかね?」と、吉岡が先頭を行く陽太に尋ねた。
「見た感じではもう三分の二は踏破したでしょう。最低でも夜明けにはつけると思いますよ」
「この分だと、ひょっとしたら本当に勝てるかもしれないね。あの武松さんに」
陽太の言葉を聞いて、坂本は白い息を吐きながら笑顔で言った。
しかしそんな坂本に住之江が言った。
「でも、まだ油断はできへんな。あの武松さんがここまま終わるとはどうしても思われへんし」
その言葉に先を歩いていた陽太がびくりと反応し、後ろを振り返る。住之江はその反応に驚きを隠せない声で尋ねた。
「な、何? 何か俺、変なこと言うた?」
「犬だ」
「へ?」と、まるで答えになっていない陽太の返答に、住之江は間の抜けた反応をした。
「犬の声がする」
他の三人も揃って耳を済ませてみる。確かに風の音に混じって、微かに犬の鳴き声と足音が聞こえる声がする。
「あっちに追い付かれたのかい?」
「でも、いくら犬の鼻がいいって言ってもこんな簡単に見付かるなんて」と、坂本は吉岡の疑問を否定したが、それでも四人の不安は拭えなかった。
「武松さん達が犬を使って追ってきたんだとしたら捕まってしまうのは時間の問題になる。ここからはできるだけ急ぎましょう。それからもう一つ」
「まだあるの?」
「上着を脱いで、荷物を降ろして下さい」
武松達は各々シベリアンハスキーに引かせた三頭引きの犬ぞりに乗ってそこに現れた。周りにはジャーマンシェパードドッグが鼻を利かせながら辺りを嗅ぎ回っている。
ふと犬達は反応し、ある地点に放置されたリュックや上着に鼻を近付けている。
武松達はその傍に犬ぞりを止めてその荷物に歩み寄った。
「まさかこれまで見破られてしまうとは思わなかったな」と、武松は上着の一つを持ち上げた。
「これ? 昼間に言っていた予備の一手ってやつか?」
「うむ。犬の鼻に引っ掛かりやすい特別な匂いをつけておいた。犬の鼻なら数キロ先からでもその匂いを嗅ぎ付けることができる」
「で、ここからは本当に手がかりがなくなったわけだ。どうする気だよ」
「洞窟とこの地点の位置関係からすると、相手はキャンプ場に向かっているようだ。そっちに向かえば、こっちは犬ぞりあっちは徒歩。スタートの差を差し引いても追いつける可能性は十分にある。あとは運だ」
淡々と説明する武松はまるで才能ある若手を相手取る囲碁や将棋の名人のように相手の策に感心し、それでもなお余裕があるような風情が感じられる。
さくさくさくさくさくさく……
陽太の認識している限りの空間では、その靴が雪を踏み締める音だけが存在していた。
できるだけ急いでいるとはいっても、雪の上だ。走ることなどはできない。精々早歩きくらいのものだ。
あれから誰もなにも喋らなかった。
さっきからはっきりと意識を圧迫し始めている睡魔のこともある。よくよく思い返してみれば、一昨日は波瀬の暴走、昨日の徹夜麻雀で四人ともう四十時間以上睡眠をとっていない。
ふと陽太は何かに気が付いた。足をとめると、急いで視線を三百六十度巡らせる。
「陽太、どうかしたん?」
住之江が陽太に尋ねるが、彼には聞こえなかったようだ。
何度も何度も辺りを見回し確認するようにいちいち指を差す。やがて珍しく興奮したように言った。
「この上だ……! この丘の上がキャンプ場なんだ!」
全員の表情が歓喜に染まった。
「ということは、この上まで行ければ……」
「あたしらが勝ってあの部長の鼻を明かしてやれるんだねっ……!」
四人は丘の上に向かって駆け出し……雪の重さに足を捕られてころんだ。
「うう……キマらへん……」と、住之江がうめきながら起き上がり、ふと丘の下を見下ろすと目を見開いた。
「陽太、追い付かれた! 追い付かれた!」
住之江が指差した先には犬ぞりに乗った一人の男がこちらを見上げ、そりから降りて四人目指して歩き始めた。
「あれは波瀬さん……かな?」
「後二人はどうしたんだろうね」
「おそらくキャンプ場の上に回り込んでいるんでしょう。丘を登るのには犬ぞりは非力だし、かといって徒歩で真直ぐ追い掛けると、既に中腹にいる俺達には追いつけない」
チェックメイト。そんな言葉が吉岡の頭の中をよぎった。
「ちっくしょー! 最後の最後で追い付かれるのかよ!」
声には出さないが、その他の者の表情にも絶望感が伺える。
しかし陽太だけはまだ諦めていなかった。
「まだです。まだ打てる手が一つだけある」
こちらは丘の下から歩いて登っている波瀬である。
「お、やっぱり一人ずつ分散したぞ」
陽太達と思しき四人の人影はバラバラに別れていく。
このことは武松も予想していた。
曰く、「遭難者達は何故かこちらに敵意を抱き、救助されることを避けている。この調子で行くと、彼らは最後にある手段に出るだろう。それは四人バラバラになって行動することだ。
こっちは三人。あっちは四人。この雪の中では一人につき一人捕まえられればいい方だろう。となると残りの一人がキャンプ場に付き自力で遭難から生還することになる、私達は救助班としての役割を果たせなくなる。これだけは阻止しなければならない。だんじてさせてはならない!」
最後にはやたら口調が熱っぽくなっていた。陽太達の狙いは武松に抵抗するという意味でかなり的確だったということだろう。そしてそれを絶対に阻止せんと意気込む武松が波瀬に確実に上に追いやることだった。
武松から受け取った犬笛を武松から教えてもらった通りに吹くと、武松から教えてもらった通りすぐさま犬達が反応し、丘の下を取り囲んでしまった。
そして揃って唸り、威嚇を始める。
確かに波瀬一人では全員で丘を下られた場合、取り逃がすことも考えられるが、これなら恐ろしくて下ることもできまい。波瀬が行うことは以上で、後は武松と和泉が全員を救出するということだった。飽くまでも彼は捕縛するとは言わない。
それが何を表しているのかは見てのお楽しみと言うことだった。
(あの野郎、今度は一体何を企んでんだか)
彼は今まで虐げられやすい存在だった。気弱で、その上、熱が入ると妙な言動が目立つ坂本俊介は、小学校では程度は軽いものの割と虐められ、中学、高校ともにその存在は軽んじられてきた。
しかし今、彼は超人とも言える武松に勝とうとしている。あと五歩、四歩、三歩と次第に近付いて来る丘の頂。
既に眼前にはめざす黒馬キャンプ場が見えていた。
三、二、一、〇。
そこまで数えたところで、ガチャッとなにかの音がした。右足が何かに捕られて転ぶ。
すぐに立ち上がろうとするが、右足をとったものはまだ外れていないらしく、また足を引っ張られて転びそうになった。
何とか堪えて右足を見る。
なにかが自分の足に噛み付いていた。
豪邸などでよく見かける罠だ。その上に足をのせると、口を閉じて足首に噛み付く。
本来は縁がギザギザでもっと酷い目にあうものなのだが、その部分は平らな上にゴムが張られており、取れない、動けない他はさしたる障害がなかった。
「ふははははっ! ひっかかったな坂本君! こうして罠を使えば確実に救助できると言うわけなのだよ」
罠に掛けてでも救出。坂本は敗北感と共に、いかにも武松らしいと思った。
一方吉岡も坂本と同じように罠に掛かっていた。しかし彼女は坂本とは気合いが段違いに違う。しっかり踏み固められた雪ごと罠を引き抜くと、更に前進を開始した。
しかしそこに和泉が立ちはだかった。
「あら凄い。罠を引き抜いてきたのね」
「和泉、悪いけど、今回はあんたの旦那に勝つためには手段を選ばないわよ……っ!」
そういって吉岡は和泉に飛びかかった。これでも空手の段をもっている。一撃鳩尾に当ててやればここは通れるはずだ。
しかし次の瞬間、彼女は雪の上に転がっていた。
「あ、ごめんなさい。つい反射的に」
確か吉岡は出した拳を取られたあとに投げられた記憶がある。
そしてまた思い出した。いつか和泉がいていた。彼女の実家は合気道の道場をやっていると。
吉岡は縛り上げられて救助されるとテントの中に連れていかれた。
そこには既に坂本と住之江が捕まっていた。
「和泉、御苦労」と、武松が寝嫌いの言葉を掛ける。
そして彼は吉岡達に向き直って言った。
「ふむ、残りは陽太君だけのようだね。彼も早く救助してやらないと、手遅れになりかねない」
(あんたらが邪魔せんかったらとっくにここに戻ってきて助かってるんやろうけどな)と、住之江は思ったが、言っても無駄であるため心の中で言うに留めておいた。
三人の見張りは和泉にまかせ、武松はテントの外に出た。空は既に白みきり、青空のしたの白銀の雪が眩しい。
周りに満遍なく張られた罠を踏まないようにしながら下を覗く。
「ん?」
おかしい。すぐにそう感じた。
下に見えるはずの波瀬の姿が見えない。さらに見回ってみるが、陽太の姿も見えなくなっている。今回初めて彼の目の前で起こっている事象が彼の理解を超えた。
しばらく思考してみるが、答えが浮き上がって来ない。一体全体、森水陽太は何をしたのだろう。
その時、背後から犬特有の粗い呼吸音が聞こえた。振り返ってみると、そこには犬ぞりに乗った陽太と波瀬がいた。
「チェックメイトだぜ、武松」
波瀬がにやりと笑って言う。
「なるほど。抱き込むという手があったか」
武松はようやく得心がいったように手を叩いて言った。
彼が納得した通り陽太は波瀬を抱き込んだ。四人で別れたあと、陽太は単独で丘を駆け降り、波瀬に接触した。そして持ちかけたのだ。たまには武松さんが困ったところをみたくはないか、と。
妻である和泉より付き合いが古い波瀬はそれはほとんど不可能であると分かっていた。
しかし陽太の提案は意外と武松の予想をこえるかもしれないと思った。今までの言動を検証しても自分の裏切りを予想しているとは思えない。
裏をかけても武松を困らせることはできないかもしれない。しかしやったことはない。出来たことはない。
やってみる価値はある。
陽太の説得で、波瀬はそんな考えを抱くに至った。
それから陽太と波瀬を載せた犬ぞりはおそらく武松と和泉も通ったであろう回り道を通ってキャンプ場に現れた。
周りにはり巡らされていた罠も、犬ぞりには通用しなかったようだ。
武松は笑った。
「ふははは……楽しい! 楽しいぞ、陽太君! かつてここまで私を追い詰めたものはいなかった。しかし! 最後に勝つのは私だ! 君を必ず救助してみせる!」
「でももう、キャンプ地に戻ってきたんですよ? もはや俺は遭難者じゃない」
「甘いっ!」と、武松は一喝すると、懐から細長い管を取り出した。犬笛である。
それを思いきり吹くと、陽太達の乗っている犬ぞりの犬達がいきなり前方に向かって走り出した。
「「えっ!?」」
犬ぞりは砲台状になっている丘の頂のキャンプ場を横断し、丘の縁に立っている武松の横を通過した。
詰まるところ、その先はこの丘を構成している急傾斜だ。
シュパッ
そんな音がして、そりは一瞬だけ空中に浮かんだ。
陽太は一瞬だけ思う。スキーのジャンプの選手はいつもこんな光景を見ているのかと。
しかしそんな余裕があるのも束の間、あっというまにニュートンの法則に捕まり、少しだけ浮いていたそりが落下しはじめる。傾斜に着地したかと思うと、その斜面を滑り始め、あっという間に加速をしていく。
「「ああああああぁぁぁぁぁぁっっっ!」」
下で倒れままぴくりとも動かなくなった二人を見下ろして、武松はテントの中にいる全員に通達した。
「ただ今陽太君を救助しようとした波瀬君が犬ぞりの暴走による二次災害に巻き込まれた。直ちに救助だ、諸君!」
『…………………』
テントの中で全てのやり取りを見ていた全員が絶句したのは言うまでもない。
辛うじて打ち身などの軽い怪我で済んだ二人を回収するころには昼を回っていた。そしてお座なりに昼食を済ませると全員が猛然としてテントなどの片付けに走り回った。
それが終わるとすぐさま車の中に飛び込もうとする。もう眠くて仕方がないのだ。家に帰り付くまで目を覚ましたくない。
しかしそんな彼らを武松は制止した。
「待ちたまえ。最後にやることがある」
全員が武松をギロリと睨んだ。
そんな視線を受けても涼しい顔で武松はあるものを取り出した。それはKWCの面々が今一番見たくないものである。
件のくじ引き箱だった。
「誰が帰りの運転をするかをこれで決める。あと引いてないのは私だけだったな」
この合宿中では和泉と波瀬も引いていないが、合宿前におおまかな場所を決めるのと、行きの移動手段を決めるのに引いている。
そして武松はごそごそと穴の中を探り、その紙を掴み出した。それにはやたら迫力のある毛筆の字でこうかかれていた。
『怨』
「……誰かね、こんなものを入れたのは?」
その時はもう一度くじ引きをしなおした結果、武松が運転していくことに決まった。あとで調べてみると、あの箱の中にはまだ運転免許をもっていない坂本や吉岡の名もあったと言う。
そして更に恐ろしいことは、武松家長男優太(2)の名前もあったことである。
誰もが眠る車の中で陽太は何かの拍子に少しだけ起きた。
その間に彼は決意した。
今度から旅行の幹事は自分でやろう。最低でも武松には決して任すまい、と。
こうしてKWCの本当の意味でいう恐怖の冬季合宿は幕を降ろしたのである。
(その三・当たるもこだわり、当たらぬもこだわり・完)